金王八幡宮について

御祭神

応神天皇(おうじんてんのう)
[品陀和気命(ほんだわけのみこと)]

応神天皇は第15代天皇で、八幡大神として全国の八幡社に祀られています。
別名は品陀和気命(ほんだわけのみこと)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも称され、欽明天皇32年(571)に初めて九州宇佐の地にご示現になられました。
皇室は、宇佐八幡宮や石清水八幡宮を伊勢神宮に次ぐ、第二の宗廟として八幡大神を崇敬しました。清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神「弓矢八幡」として崇敬を集め、殊に清和源氏は八幡大神を氏神として崇敬し、日本各地に勧請しました。源義家が石清水八幡宮で元服し、自らを八幡太郎義家と名乗ったことは有名です。
当八幡宮は、雄徳山八幡(石清水八幡宮)を勧請したことが元別当東福寺の梵鐘に記されています。(月旗を御神体と成して勧請)
社伝記によると、土佐坊昌俊(金王丸)の養子となった渋谷重家が、父昌俊の遺品を受けに鞍馬寺に行った際、甲冑馬上の八幡像を拝し由縁を尋ねると、弘法大師が宇佐八幡宮に参篭の折「我東国に跡を垂れ、国家の泰平を守らんとて、いまだ由縁来らず、暫く鞍馬寺に納べし」との御神託により鞍馬寺に納められた八幡像で、高重が渋谷に持ち帰り当八幡宮の御神体としたと記されています。
八幡大神は、「文武の神」「平和の神」「母子の神」「子授・安産・子育ての神」として古くから信仰されておりますが、当八幡宮ではこの外に「福徳開運、厄除、良縁の神」特に「渡航交通安全の神」として、御神徳の高い神と崇められています。

由緒

由緒

当八幡宮は、第73代堀河天皇の御代、寛治6年正月15日(1092)鎮座いたしました。
桓武天皇の曽孫である高望王の後裔で秩父別当平武基は源頼信による長元の乱(1028-1031)において功を立て、軍用八旒の旗を賜り、その内の日月二旒を秩父の妙見山(武甲山)に納め八幡宮と崇め奉りました。
武基の子武綱は、嫡子重家と共に後三年の役(1083-1087)の源義家の軍に300騎余を従え一番で参向し、仙北金沢の柵(秋田県仙北郡金沢)を攻略しました。
その大功により名を河崎土佐守基家と賜り武蔵谷盛庄を賜りました。
義家は、この勝利は基家の信奉する八幡神の加護なりと、基家が拝持する妙見山の日月旗を乞い求め、月旗をもってこの地に八幡宮を勧請しました。

重家の代となり禁裏の賊を退治したことにより堀河天皇より渋谷の姓を賜り、当八幡宮を中心に館を構え居城とし、渋谷氏は代々当八幡宮を氏族の鎮守と崇めました。これが渋谷の発祥ともいわれています。渋谷城は、東に鎌倉街道(現 八幡通り)、西に渋谷川が流れ、北東には黒鍬谷を有し、さらに数箇所に湧水があるという好条件を備えていました。しかし、大永4年(1524)1月13日に起きた、北条氏綱と上杉朝興の高輪原の戦(現 品川区高輪付近)で、渋谷氏が交戦中だった北条軍の別動隊により襲われ焼き払われてしまいました。現在、境内に渋谷城砦の石が保存されています。
渋谷氏が武蔵谷盛庄七郷(渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井など)を領していたので、当八幡宮は八幡通り(旧鎌倉街道)、青山通り 宮益坂 道玄坂(旧大山街道)を中心とする、渋谷、青山の總鎮守として崇められています。⇒氏子区域【PDF】
当八幡宮は、古くは単に八幡宮又は渋谷八幡宮と称しておりましたが、渋谷金王丸の名声により、金王八幡宮と称されるようになりました。

金王丸

金王丸

渋谷金王丸常光(しぶやこんのうまるつねみつ)は、渋谷平三重家の子で、永治元年(1141)8月15日に生まれました。
重家には子がなく夫婦で当八幡宮に祈願を続けていると、金剛夜叉明王が妻の胎内に宿る霊夢をみて立派な男子を授かりました。そこで、その子に明王の上下二文字を戴き「金王丸」と名付けました。

金王丸17歳の時、源義朝に従って保元の乱(1156)で大功を立て、その名を轟かせました。続く平治の乱(1159)では義朝は敗れ、東国に下る途中立ち寄った尾張国野間の長田忠宗の謀反により敢えない最期を遂げました。金王丸は、京に上り常磐御前にこのことを報じたのち渋谷で剃髪し、土佐坊昌俊と称して義朝の御霊を弔いました。(平治物語には、金王丸は出家して諸国を行脚し義朝の御霊を弔った、とあります。)
金王丸は、義朝の子である頼朝との交わりも深く、頼朝が挙兵の折は、密かに当八幡宮に参籠して平家追討の祈願をしました。

壇ノ浦の戦いののち頼朝は義経に謀反の疑いをかけ、これを討つよう昌俊(金王丸)に命じました。昌俊は断ることもできず、文治元年(1185)10月、百騎ばかりを率いて京都に上り、同月23日夜義経の館に討ち入りました。
昌俊は、はじめから義経を討つ考えはなく、捕らえられて勇将らしい立派な最期を遂げました。
金王丸の名は平治物語、近松戯曲などに、また土佐坊昌俊としては源平盛衰記、吾妻鏡、平家物語などにみえ、その武勇のほどが偲ばれます。
そして金王丸の名声により、当八幡宮を金王八幡宮と称するようになりました。
当八幡宮に伝わる「毒蛇長太刀」は金王丸が所持していたもので、長田の館の奮戦で「鉾先に向かいその刃風に触れる者生きて帰る者なし、鰐口は遁れるとも毒蛇の口は遁れ難し」と言ったことにより名付けられました。
当八幡宮の境内にある金王丸御影堂には、金王丸が17歳で出陣の折、自分の姿を彫刻し母に形見として残した木像が納められています。(写真)
渋谷氏の後裔は全国各地に連綿と続いておりますが、明治の元勲東郷平八郎元帥も渋谷氏子孫の一人です。

金王丸の木像は、3月最終土曜日に斎行される金王丸祭で特別開帳されます。

御社殿

渋谷区指定有形文化財

御社殿

御社殿は、徳川2代将軍秀忠の世 慶長17年(1612)に青山忠俊と春日局によって造営されました。竹千代(後 家光)9歳、弟国松(後 忠長)7歳の頃、3代将軍は国松であろうとの風説が行われました。竹千代の乳母春日局と守役青山伯耆守忠俊はこれを憂い、伯耆守は氏神として信仰していた当八幡宮に熱心に祈願をこめ、春日局もまた護摩料金八十両を奉納しています。その後、家光の具足始めの儀が行われることとなり、これ神明の加護と伯耆守は数多の材木を、春日局は金百両を寄進し社殿を造営しました。
この社殿は、権現造りで江戸初期の様式を現在にとどめ、都内でも貴重な建築の一つに数えられます。近世の神社建築としてはあっさりした姿で、豪華ではあるが極めて優しげな彫刻が各所に施されています。特に拝殿正面左右の窓のような狭間には漠と虎が彫られ、獏は世の安寧、虎は正しいまつりごとへの祈りの心が込められています。

神門

渋谷区指定有形文化財

御社殿

神門(通称 赤門)の建立年代は、「地子古跡寺社帳」による明和6年(1769)と、門の額裏面の享和元年(1801)の刻銘があり、明和6年の資料には、「(前略)当社八幡宮門之不用心ニ付、冠木門内法八尺、扉両開、左右壱間宛塀、屋根瓦葺、塀左右三間四尺宛之矢来」と記されこれまで門がなく、この時新築したことが窺えるが、現在の門と寸法や形式に一部相違がみられます。享和元年(1801)は、文献によると、丹波篠山藩青山忠裕より150両の寄進があり各建物の修理を広範囲でおこなっており、建物の様式より見てもこれよりも時代が下ることはないと思われます。
幾度かの修理を経て今日に至っておりますが、江戸時代初期の建築様式を現在にとどめる、都内でも代表的な建物の一つです。

金王桜

渋谷区指定天然記念物

金王桜

金王桜は、長州緋桜という種類で、雄しべが花弁化したものも交じり、一枝に一重と八重が入り混じって咲く珍しい桜です。
当八幡宮の「社傳記」によれば、文治5年(1189)7月7日 源頼朝が藤原泰衡退治の下向の時、渋谷高重の館に立ち寄り当神社に現在社宝とされる太刀を奉納しました。
その際金王丸御影堂へ参り、父義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節を偲び、金王丸の名を後世に残すべしと厳命し、鎌倉亀ヶ谷の館にあった憂忘桜をこの地に移植させ、「金王桜」と名付けたとされています。
また、江戸時代盛んに作られた地誌にも紹介されており、江戸三名桜の一つに数えられました。

金王桜は、現在に至るまで代々実生より育て植え継がれ、守り伝えられています。

しばらくは 花のうえなる 月夜かな

この句碑は、元禄4年(1691)芭蕉48歳の時のものです。文化14年中(1817)に、蕉門十哲の1人であった太白堂門人山奴社中が建立。当八幡宮でこの句を詠んだという記録は見つかってないので、句にあった場所に建立したと考えられます。

句碑

玉造稲荷社 たまつくりいなりしゃ

玉造稲荷社
  • 御祭神
  • 宇賀御魂命(うがのみたまのみこと)
  • 祭礼日
  • 2月初午
  • 創 建
  • 元禄16年8月(1703)

由縁

宇賀御魂命は、農耕をはじめ諸産業に御神徳があり、屋敷神としても多く祀られております。 御本社は京都伏見稲荷大社で、伊勢神宮内宮に祀られる天照皇大神のお食事を司る神として外宮に祀られた豊受大神と同神であるといわれております。稲荷神社は全国に約三万社余あるといわれ最も身近な神社の一つです。 玉造稲荷神社が創建された江戸中期、さらに明治の頃まではこの渋谷も農家が多く稲作がおこなわれ、茶畑も広がっておりました。 また、大山道(国道246号)宮益坂には町屋が並び商業が盛んでした。 これらさまざまな人々の崇敬を集め、その御神光は現在に至るまで変わることなく輝き渡っております。

御嶽社 みたけしゃ

御嶽社
  • 御祭神
  • 櫛眞知命(くしまちのみこと)
    大己貴命(おおなむちのみこと)
    少名毘古那命(すくなひこなのみこと)
    日本武尊(やまとたけるのみこと)
  • 祭礼日
  • 11月一ノ酉
  • 創建
  • 不詳

由緒

御嶽神社は、「開運」「商売繁昌」の神として、特に客商売を営む人々の信仰を広くあつめており、本社は武州御嶽神社です。 大鳥大神と称える日本武尊は、古来より武道守護の神として武士の信仰をあつめておりました。 ここに祀られたのも、この地が武門の誉れ高き渋谷氏の居城であったからと考えられます。 また、社前の狛犬一対と西参道の鳥居はかつて実践女子学園の校内にあった「香雪神社」のものを移設したものです。

金王丸御影堂 こんのうまるみえいどう

金王丸御影堂
  • 御祭神
  • 渋谷金王丸常光(しぶやこんのうまるつねみつ)
  • 祭礼日
  • 3月最終土曜日 金王桜まつり
  • 創建
  • 不詳 昭和47年再建

由縁

渋谷平三重家の子で、永治元年(1141)8月15日に誕生しました。重家には子がなく夫婦で当八幡宮に祈願を続けると、金剛夜叉明王が妻の胎内に宿る霊夢を見て立派な男子を授かりました。そこで、その子に金剛夜叉明王の上下二文字を頂き「金王丸」と名付けました。
金王丸17歳の時、源義朝に従い保元の乱に出陣大功を立て、平治の乱で義朝が敗れたのち出家し、土佐坊昌俊と称し義朝の御霊を弔いました。
また、頼朝とも親交が深く鎌倉幕府開幕にも尽力。義経追討の命を受け、文治元年(1185)10月23日夜、百騎ばかりを率いて義経の館に討ち入り勇将らしい立派な最期を遂げました。
頼朝は、金王丸の忠節を偲び、鎌倉の館よりこの地に桜樹を移植し「金王桜」と名付けました。
この御影堂には、保元の乱出陣の折、自分の姿を彫刻し母に残した木像が納められ、毎年三月最終土曜日の祭礼に特別開扉されます。更に金王丸が所持した「毒蛇長太刀」も保存されております。

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